「錦糸町」って不思議な響きの名前だと思いませんか。地域の名前には歴史上のできごとが関係している場合も多いので、地域のことを知るには由来を調べると新しい発見があるかもしれません。そこで今回は錦糸町の名前の由来と歴史について調べてみました。

錦糸町の名前の由来

・「錦糸町」は駅名

「錦糸町」と聞くと町名のようですが、これは駅の名前なのです。錦糸町駅の南北にわたる地域の住所を確認すると、南は「江東橋」、北は「錦糸」。錦糸町という駅名は、1872年(明治5年)にこの地域を新規に町と定めた際に、町名を「本所錦糸町」とした後、1911年(明治44年)に改名され「錦糸町」となったことに由来します。その後1967年(昭和42年)に新住居表示された際には、現在の「錦糸」となりましたが、駅の名前は「錦糸町」のまま残りました。

・なぜ錦糸町なの?

では、なぜ「錦糸町」と名付けられたのでしょうか。それは、この辺りの地域が俗称で「錦糸堀」と呼ばれていたからだといわれています。またまた「錦糸」ですね。「錦糸」とつく名前の由来は、実ははっきりとわかっていませんが、岸堀がなまって錦糸堀になったという説、この辺りで琴の糸が作られていたからという説、堀に映り込む朝日夕日がきらきらと錦糸のように見えたからという説が有力視されています。琴の糸の説、日の光に照らされて錦糸のように見える堀の説、なんだかロマンチックな由来ですね。

はじまりはなんと平安時代から

錦糸町の辺りの地域の歴史を遡ると、始まりは定かではないものの、平安時代から鎌倉時代のころにかけて、中洲として発展した柳島の最南端に位置したと考えられています。1590年(天正18年)、徳川家康が江戸に入るころには、この辺りは湿地帯となり陸地化されました。

その後、この地域は開発が進んで急速に発展していくのですが、開発の契機となったのは1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」でした。大火によって江戸の半分以上が焼失したことで、防火対策を兼ねた江戸の町作りが根本的に見直されることになり、1855年(安政2年)、掘割によるインフラ整備が行われました。大横川、横十間川、堅川、北十間川によって現在のように区切られた形ができあがり、掘割で作られた南割下水のうち大横川より東の部分が「錦糸堀」と呼ばれるようになったのです。

現在のJR錦糸町駅北口にある北斎通りの辺りになります。掘割によってできた水路が活かされ、水上交通を利用して材木を運ぶなど、この辺りでは材木問屋を中心に商業や産業が発展していきました。

近代に入ると工場や鉄道も

錦糸町は明治に入るとさらに近代化が進んでいきます。1876年(明治9年)には、現在の両国高校の辺りに新燧社(しんすいしゃ)によって日本初の国産マッチ製造工場が設立され、1890年(明治23年)には日本初の車両工場が建設されるなど、工場地域として開発が盛んになりました。

そして、この地域を飛躍的に発展させることになったのが、鉄道の誕生でした。1894年(明治27年)に、総武鉄道株式会社によって「本所停車場」(現在の錦糸町の駅)を始発として、市川・佐倉までの鉄道が敷かれました。さらに、明治末期(~1912年)から昭和30年代(1955年~)にかけて都電が発達し、築地や日本橋とも結ばれ、益々にぎわいをみせるようになったのです。

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